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京王・・・6000系 動物園線撮影記&懐かしの撮影記 [あおたけ的 懐かしの撮影記]

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ありがとう京王6000系SP
動物園線撮影記&懐かしの撮影

3月上旬での引退が決まっている京王6000系。前回の1月に紹介した競馬場線からは既に撤退し、残るは動物園線(高幡不動~多摩動物公園)で活躍する6722Fのみとなってしまいました。

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動物園線で最後の走りを見せる6000系・6722F。
カーブを行く姿をドカンと正面撮り。
動物公園側に掲げられているのは高幡不動乗務区オリジナルのもの。
この撮影地はゆるキャラさんのブログを参考にさせていただき、
大変助かりました!m(_ _)m
11.02.26 京王動物園線 高幡不動-多摩動物公園

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高幡不動側は競馬場線のときと同じ、京王公式マーク。
今度はきっちりと4連の編成を入れて撮影。
お、「高幡不動」幕だ・・・。
11.02.26 京王動物園線 多摩動物公園-高幡不動

6722Fは5扉車の4連。全盛時の8連・10連にはおよばないものの、競馬場線の2連より迫力があって、カーブを行く姿も画になります。片側だけですが競馬場線とは違う惜別マークを掲出しているのも、ファンにとっては嬉しいですよね。でも、これが旧塗装だったらなぁ・・・なんて贅沢をつい思ってしまいます。というのも、やはり私が思い浮かべる6000系の姿と言えば、アイボリーに細いエンジ色の帯を巻いた「京王帝都」時代の塗装で、シンプルながら上品なカラーリングは大型の6000系にとてもマッチしていました。近年ではリバイバルカラーとして旧塗装が施された2連の6416Fが競馬場線を中心に運転されていましたが、既に運用を離脱。私は前回の撮影後になんとか平日夜の東府中で撮影できた程度でした。

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惜別マークを掲げて夜の競馬場線運用に就く、旧塗装の6000系。
現在の競馬場線は7000系で運転されていて、この光景は過去のものに。
11.01.19 京王競馬場線 東府中

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スカート側の6416には青いマーク。やはり6000系にはこの旧塗装が似合います。

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リバイバルカラー車にはかつての「KTR(=京王帝都)」マークも復刻。
細部にまでこだわっていました。

そんな旧塗装の6000系。リバイバルではない現役時代に一枚くらい走行写真を撮影してないものかと、過去に撮影した写真ファイルをちょっと探ってみることに。すると、「2001年1月 京王・東急」と書かれたスリーブを発見! 果たしてそのスリーブに6000系が写ったコマはあるのでしょうか・・・?
ここからは「懐かしの撮影記」として、そのスリーブから数点の写真をピックアップしてみました。


今からちょうど10年前の2001年1月。私は冬のボーナスで念願の300ミリ望遠レンズを購入しました。今ではデジタルズームなどで300ミリは手軽に届く望遠域になりましたが、光学一眼レフを使っていた当時の私にとっては憧れの領域。しかもこれが初めて手に出来たキヤノンのプロ仕様Lレンズ、通称・「白レンズ」でした。買った翌日、さっそく新しいレンズの試し撮りにと出かけたのが京王線。それにしても、テストになぜ近場の中央線ではなく、よりによってあまり縁の無い京王を選んだのかと言うと、実はこの日の京王では、ある臨時列車が運転されていたのです。

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この日、京王での本命はコレ。9000系デビュー記念の臨時列車で、
ヘッドマークを掲げた記念列車は望遠レンズの試し撮りに最適でした。
車両や線路端には前日に降った雪が積もっていますが

天気は良好だったようです。
01.01.21 京王線 千歳烏山-仙川

そんな臨時列車撮影ですが、もちろんぶっつけ本番というワケではなく事前に色々と試し撮りしています。7000系、8000系・・・そして、探していた6000系もありました~!もちろん旧塗装!

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本線を走る旧塗装の6000系。既にスカートが取り付けられています
上のリバイバルカラーと比べると、貫通扉付近の塗り分けなど
若干の違いが見られますが、個人的にはこちらの方が馴染みがあります

都営新宿線から直通してきた、相模原線・橋本行きの快速。
01.01.21 京王線 仙川-千歳烏山

よく見ると隣にも旧塗装の6000系が写り込んでいます。この頃はまだまだ6000系は主力で、何本も走っていたのでしょう。ただしデジタルと違って、36枚撮りのフィルムでは来たものを片っ端から撮るなんて事はできず、かなり厳選して撮影しているので、6000系はわずかにこの一枚だけでした。京王での目ぼしいカットはこれくらいだったのですが、せっかくなので同日の撮影記を続けましょう。この後、近くの仙川から上り列車に乗って向かったのは下高井戸。前述したスリーブに書いてあった「東急」とは、世田谷線のことだったのです。この頃の世田谷線は80形や150形の旧型車から現在の300形への転換期で、折りしもこの日を含めた数日間には最後まで残った80形の81Fに惜別マークが掲げられていました。

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雪晴れの世田谷線を走る、惜別マーク付き「玉電」塗装の81F。
この塗装は旧形車引退に伴い、2000年12月に復刻されたもの。
01.01.21 東急世田谷線 松原-下高井戸

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新鋭300形も撮影しています。これは「Qoo」の広告ラッピング車。

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折り返してきた「玉電色」をタテ位置ドッカン構図で撮影。
10年前も同じようなアングルで狙っていたんですね・・・(^^;)。
それにしてもこの80形、外観はもとよ

木造ニス塗り壁、板張り床と内装に味のある電車でした
もっといろんな撮り方をしておけばよかったなぁ・・・。
01.01.21 東急世田谷線 下高井戸-松原

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同時に残っていた150形。
この車両はサイドのステンレス・コルゲートが最大の特徴なの

真っ正面撮りとは・・・(- _ -;)
150形も、もっと撮影しておくべき車両でした。

ここまでの写真、気づかれた方がいるかもしれませんが、実は全部300ミリ一本での撮影。というよりもこの日は300ミリしか持ってきていなかったのです。いくら買ったばかりとはいえ、短焦点の望遠一本で撮影とは無茶苦茶ですよね。しかもあまり使いこなせていないし・・・。おかげで世田谷線はイモムシみたいな写真ばかりになってしまい、もう少ししっかりと記録しておくべきだったと、今さらながら後悔しています
以上、2001年1月の撮影記でした。結局、今回の趣旨である京王6000系は一枚しか無く、しかもついで程度の撮影。でも、その「ついで」が後々こうやって貴重な一枚になるものなんですよね。デジカメ時代の今、ピント合わせなどで試し撮りした車両など確認したらすぐに消してしまう自分・・・ひょっとしたら数年後には貴重な記録になるかもしれないので、メモリが許す限りは消さずにとっておくべきなのかも知れません。

ついでに京王6000系にまつわる写真をもう一枚。前回の競馬場線のときにちょこっと触れた、6000系の「迎光」号。そう、私が初めて雑誌に投稿して採用された写真です。その写真も今回発掘することができました。

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元旦の新宿駅に停車中の6000系「迎光」号。
スカートが取り付けられていない、オリジナルに近い姿です。
88.01.01 京王線 新宿

読者投稿ページの正月企画で、新春マークや初詣臨などが並べられた中に小さく載っていたのがこの写真。前にも書きましたが、自分の撮った写真が鉄道雑誌に載っている・・・本当に嬉しかった一枚でした。今回の6722Fに付いている高幡不動乗務区の惜別マークは、特急「高尾」「陣馬」そして「迎光」、それぞれのイラストを複合させたものなのだとか。確かに中央には「迎光」を思わせる日の出のイラストがあります。あの頃の思い出がよみがえってくるようなマークが、最後の6000系で見られるとは・・・感無量の思いでした。

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ありがとう、さようなら・・・京王6000系。
11.02.26 京王動物園線 高幡不動-多摩動物公園



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懐かしの撮影記・・・485系「雷鳥」雪中撮影編 [あおたけ的 懐かしの撮影記]

あおたけ的、懐かしの撮影記
485系「雷鳥雪中撮影


北陸本線の485系 特急「雷鳥」。今年三月での引退が決定している同列車にとって、最後の冬は記録的な大雪が続き、とても厳しいものになりました。しかしそんな大雪に負けじと走る「雷鳥」の力強い写真をいろいろなHPやブログで拝見し、これは無理をしてでも冬休みに北陸へ「雷鳥」撮影に行くべきだったかなぁ・・・と、今さらながら後悔しています。結局、今冬は時間的にも経済的にも余裕が無くて、北陸への遠征は叶いませんでした。そこで今回は二年前の冬に撮影した、雪中での「雷鳥」撮影記をプレイバックしたいと思います。「懐かしの」と言うほど昔の話ではないのですが、私がまだこのブログを始める前の撮影だったので、このカテゴリーに入れさせていただきました。


2008年の年末。東京は快晴が続いていましたが、北陸地方には大雪警報が出されていました。そう、ちょうど今年最近(2011年1月)のような天気だったのですね。雪国の人には申し訳ないけれど、北陸地方が大雪と聞くと「雷鳥」を撮りたくてウズウズしてしまいます。国鉄時代からの名車485系が引退してしまう前に一度、北陸本線らしい雪景色で「雷鳥」を撮ってみたかったのです。そこで大雪警報が出されたこの日、退勤後にそのまま米原経由で福井県の敦賀まで行き一泊。翌日は早朝から「雷鳥」と寝台特急「日本海」狙いで、南今庄へとやってきました。敦賀の雪は路面にうっすらと積もる程度で拍子抜けでしたが、北陸トンネルを抜けた南今庄では期待通りの積雪。さっそく今庄寄りの直線ポイントでカメラを構えて列車を待ちます。

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4004M 特急「雷鳥4号」 08.12.27 北陸本線 今庄-南今庄

初っ端から雪煙を巻き上げる485系の「雷鳥」が撮れました。しかしパノラマグリーン車が先頭の「4号」は狙いの本命ではありません。今考えるとなんとも贅沢な話ですが、どちらかというと朝の本命は、この「4号」の30分後に来る「日本海」の方。ところがその「日本海」の姿は通過時刻を過ぎてもいっこうに見えてきません。しかも次第に雪は強くなり、あっという間に猛吹雪。寒さでレリーズを持つ手の感覚が失われはじめた頃、降りしきる雪の向こうにようやくカマ(機関車)らしき二灯の光が見えてきました。・・・「日本海」か?

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列番不明 EF81453牽引高速貨物

確かにカマでしたが、「日本海」ではなくEF81453牽引の貨物列車でした。果たして「日本海」はどのくらい遅れているのだろう・・・? 雪はさらに強さを増してゆきますが、大本命の非パノラマ車先頭「雷鳥8号」まで、二時間はここで粘るつもりです。

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316M 419系普通列車

普通列車の419系もご覧の通り。通過する列車を雪でグショグショになった時刻表と照らし合わせてみると、普通列車にも遅れが出始めています。この雪じゃ無理も無いかな・・・。それにしても寒くてツライ。他に同業者は無く、ジッとひとりで耐え続けてきましたが、もはや限界。まさに「なんだかとても眠いんだ・・・パトラッシュ・・・(-ω-`) 」状態になりかけたとき、不意にぱたっと吹雪がやみました。「(゚Д゚;) ・・・!?」

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4006M 特急「サンダーバード6号」

それと同時に通過したのは681系「サンダーバード6号」。上の419系からわずか15分後の光景で、まさに狐につままれたような気分。しかし、雪煙を豪快にまき散らす姿は迫力ありますが、画的にちょっと面白みがない。次が本命の「雷鳥8号」なのに、もう雪は完全にやんでしまったのか? 実際「8号」の定時通過時刻に雪は降っていませんでした。しかし「8号」は現れません。やはり遅れが生じている様子。すると再び空は暗転し、白いものが降り出しました。先ほどの419系のときほど強くはなく、適度な降雪状態。そこへタイミング良く飛び出してきたのは、遅れていた「雷鳥8号」!

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4008M 特急「雷鳥8号」

雪景色の国鉄色485系、これこそが私が撮りたかった「雷鳥」の勇姿でした。この一枚が撮れたことで、雪のなか待った努力が報われた気がします。それにしても、今度は681系から20分後の光景。ホント雪雲って予測が難しいですね。
まだ通過していない「日本海」は気がかりですが、上り列車を撮影するこのポイントは以上で撤収して、次は南今庄のホームで下り列車を狙います。

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4005M 特急「雷鳥5号」 08.12.27 北陸本線 南今庄

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4009M 特急「雷鳥9号」

ここでは「5号」と「9号」の二本を撮影。「8号」から一時間後の撮影ですが、すっかり雪はやんでしまいました。そう考えると、「8号」のときはよくぞ雪が降ってくれたと、天に感謝したほど。ちなみに南今庄のホームには何人かの同業者がいらっしゃったので、「日本海」の状況を尋ねてみると「あつみ温泉で抑止中」とのこと。あつみ温泉って、山形県じゃん・・・。撮影できないのは残念だけど、これでキッパリ「日本海」は諦めることができました。(最終的にこの日の「日本海」は金沢まで回送され、下りは金沢始発に変更。大阪~金沢には489系の代走が走ったらしい。もちろんマークは無く、代走でおなじみの「蛍光灯」)。

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4013M 特急「雷鳥13号」

ラストは再び朝と同じ場所の下りアングルで、「13号」を撮影。直前に日が出て、光線が厳しいかと思われましたが、雪の照り返しのおかげでなかなかいい色合いで撮影することができました。それにしても、さっきまで吹雪いていたとは思えない天気です。これで「雷鳥」撮影は終了。
・・・って、実はまだお昼前。本来なら午後は上りの光線状態が良くなる細呂木あたりに転戦して、もう一丁「雷鳥」撮影へ行くのがバリバリの「撮り鉄」なのでしょうが、私的に雪中の「8号」が撮れたことで満足してしまい、午後は今庄で名物の「今庄そば」を食べた後、鈍行で北陸線を南下。米原から大垣へ出て、経営移管後に初乗車となる養老鉄道を完乗してから東京へと帰ったのでした。

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08.12.27 養老鉄道 大垣


翌年冬、「日本海」のリベンジに同じ撮影地を訪れたところ、付近には「立入禁止」のロープと立て札が立てられていました。撮影当時は雑誌の撮影地ガイドにも掲載されていた南今庄の有名撮影ポイント。もうこのアングルで撮れなくなってしまったのが惜しまれます・・・。

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今庄名物の今庄そば。
皿に盛られ、大根おろしと一緒に食べるのが越前流。
手打ちの蕎麦は平たく堅めで、歯ごたえがあります。☆☆☆・・



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懐かしの撮影記・・・京葉線 編 [あおたけ的 懐かしの撮影記]

あおたけ的、懐かしの撮影記
京葉線


中央線から201系が引退して気が抜けてしまったというワケではないのですが、先週末は知り合いの結婚式に参列 (アッチャンおめでとー ^ ^) したりしていて、非鉄。今週末こそはどこかへ行こうかと考えていたところへの台風接近。さすがに大雨の中で撮影に出る気合いは無く、これで二週連続の非鉄となってしまいました。。。そこでちょっと過去の写真を探ってみたいと思います。ネタが無いときにアップする「懐かしの撮影記」、今回は今年全線開通20周年を向かえ、先日盛大な車両基地公開イベントなどが行われた「京葉線」をクローズアップ。

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今年全通20周年を迎えた京葉線の車両たち。
ちなみに20年間京葉線で走り続けているのは真ん中の205系のみ。
10.10.09 京葉車両センター (再掲)


東京と千葉を東京湾沿いに走る京葉線。現在では首都圏への通勤通学輸送や東京ディズニーリゾートへのアクセス路線として重要な役割を担う同線ですが、第一期に開業したのは西船橋~千葉港(千葉みなと)のわずか18.4キロ。この頃の京葉線はのんびりしていて、特急や快速の運転などもちろん無く、平日の日中などわずか4連で運転されていたこともありました。

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西船橋に停車中の京葉線用103系。低運転台初期車、全車非冷房編成です。
1986.03.02 京葉線 西船橋

写真は第一期開業日となった1986年3月3日の前日に撮った試運転列車です。本当なら開業日に運転されたヘッドマーク付きの記念列車が撮りたかったのですが、開業日の3月3日は平日の月曜日。今でこそ新線や新駅の開業は土・日に行われることが多くなりましたが、この頃のダイヤ改正は平日に行われていたんですね。今思えば、そこが「国鉄」らしさだったのかも。ちなみにこのダイヤ改正では埼京線の新宿乗り入れも開始されており、当日の私はそちらの延伸開業記念マークの撮影に行ってしまって、京葉線の記念マークは撮れずじまいでした。

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これも第一期の京葉線。
開業から四ヶ月も経ってようやく初乗りに出向いたときの写真。
上写真と同じアングルで恐縮ですが、隣には武蔵野線運用に就く201系
が写っていました。こちらも懐かしい・・・。
1986.07.06 京葉線 西船橋

第一期開業の翌年(1987年)には国鉄の分割民営化に伴い、JR東日本の一路線となった京葉線。第二期に当たる南船橋~新木場・西船橋~市川塩浜の延伸開業と千葉みなと~蘇我が旅客化したのはさらに翌年の1988年12月のことでした。東京駅まであと一歩というところまで近づいたこの延伸ではTDL最寄の舞浜駅が開業し、武蔵野線との直通運転も開始。現在の京葉線の基盤となる運転体系が確立されました。注目度も第一期のような「千葉の盲腸線」とは比べ物にならず、開業前からメディアなどに取り上げられることが多くなり、私もそんな京葉線を一足先に見てみたいと地下鉄東西線の浦安からオリエンタルランド交通(現在の東京ベイシティ交通)バスに乗って、試運転列車を眺めに行ったものです。

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開業前の京葉線に入線した建築限界測定試験。
DD51+ヨ+オヤ31+トラ+クモユニ143+トラ+ヨ+DE10
という珍ドコ編成。
1988.10 京葉線 新浦安付近

開業前の新線で行われる建築限界測定試験。編成に挟まれたクモユニの姿もさることながら、何より注目は建築限界測定車・オヤ31、通称「オイラン車」。建築限界を測るために飛び出した無数の矢羽根を花魁のかんざしに例えてこう呼ばれるのですが、なかなか洒落たアダ名ですよね。この写真ではその特徴が解りづらいのが残念ですが・・・。
この写真ですが、近くのマンションの踊り場から撮影しています。開業前の駅には当然入ることができず、なんとか見下ろせる場所を探したのでした。今ではマンション等に無断で立ち入ることは問題視されていて慎むところですが、当時は管理人さんに一声かければ撮影させてもらえたもので、この京葉線を見下ろせるマンションなどSLが走った際には撮影地ガイドとして某雑誌に掲載されていたほどのところでした。

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こちらは延伸開業直前の103系試運転列車。
既に記念のマークが掲げられています。
1988.11.27 京葉線 市川塩浜-新浦安(後追い)

そして迎えた開業日の12月1日・・・も平日でした。しかし当時、JR全線完乗にしゃかりきになっていた私はどうしても開業日に全線完乗を果たしたくて、なんとか夜に乗車。そのときに一応写真は撮ったもののどれもブレブレか真っ暗。下記に紹介する写真は後日、撮りなおしに行ったときのものです。

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新木場-蘇我・延伸開業記念マークを付けた103系。
先日行われた京葉区の公開で201系が付けていたものですが、
この頃の京葉線に201系はまだいませんでした。
1988.12.03 京葉線 新浦安

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直通運転が開始された武蔵野線103系にも記念マーク。
1988.12.03 武蔵野線 西船橋

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習志野区から借り入れたカナリアの103系も活躍していました。
ATS-Pの取り付け工事などで、車両が不足していたためと思われます。
1988.12.03 京葉線 新浦安

次に紹介するのは京葉線開業の歴史に直接関係無いのですが、1989年の千葉県民の日に撮影したこんな臨時列車。

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103系による「県民の日記念号」。
一灯の原型ライトとP型工事で潰された運行表示窓が特徴的な編成です。
1989.06.15 京葉線 千葉みなと

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こちらは高運転台車の103系。
マークの運転区間には千葉みなと-新松戸とあります。
1989.06.15 京葉線 千葉みなと

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房総方面からは113系で運転された記念号。
これは館山から内房線経由で来たものですが、この他にも外房や
総武線からの列車も記録してありました。
1989.06.15 京葉線 千葉みなと

実はこの臨時列車は偶然撮れたもの。というのも、千葉県民の日に行われるイベントに友人が大好きだったアイドルがゲスト出演するということで、千葉ポートパークまで連れ出されたのです。ちなみにそのアイドルとは、昨年世間を騒がせた「の〇P」さん・・・。20年後にまさかあんなことになろうとはね・・・(^^;)。

新木場延伸から二年後の1990年3月。第三期開業で京葉線は東京乗り入れを果たし、ようやく東京~蘇我全線開通となりました。それに伴いデビューしたのが赤いラインの205系。京葉線仕立てに前面をデザイン変更しての導入でした。今でこそ京葉線=赤いラインのイメージですが、当時は京葉線といえば青い103系の路線。新に加わる205系も当然ブルーのラインだと思っていた私は、205系の新製回送を見に行って赤いラインと変更された前面のインパクトに驚いた覚えがあります(205系新製回送の写真も撮ったのですが、今回は見当たりませんでした。いずれ出てきたら紹介できるかも・・・)。
全線開通日の3月10日、この日は土曜日だったので午後から出撃。東京駅のなが~い地下通路を初体験して、東京から乗車。このときも開業日に完乗を果たしています。

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新製投入された京葉線用205系、いわゆる「メルヘン顔」の営業運転初日。
1990.03.10 京葉線 新浦安

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全線開通記念マークは漫画家の高橋留美子さんがデザイン。
1990.03.10 京葉線 新浦安

晴れて東京~蘇我の全線が開通した京葉線。その告知ポスターや記念ヘッドマークのイラストデザインを担当したのが、「うる星やつら」や「めぞん一刻」、「犬夜叉」などでおなじみの漫画家・高橋留美子さんでした。もちろん当時から超売れっ子の有名漫画家。ヘッドマークと同デザインの開業記念オレカは即完売だったとか。記念イラスト、そこにはのちに京葉線のイメージキャラクターとなる女の子が描かれていました。開業時には名前が無かった女の子には、名前が一般募集され「マリン」と命名。

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「マリンです。どうぞよろしく」こんなマークも製作されました。
1990.07.29 京葉線 蘇我

当時の京葉線休日快速には「マリンドリーム」という愛称が付けられていました。「マリンドリーム」の「マリンちゃん」。ぴったりの名前ですね。その後の数年はポスターや等身大パネルなどで活躍した「マリン」でしたが、いつのまにか姿を見せなくなってしまいました。また「マリンドリーム」という愛称も「快速」に統一され、すでに過去のものとなっています。

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「マリン」マークを撮影した同日、こんな写真も撮っていました。
「LOOK EAST」キャンペーンのポスター電車。京葉線205系バージョン。
1990.07.29 京葉線 舞浜

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こちらは武蔵野線103系バージョン。
当時の武蔵野線はまだ6両編成でした。
1990.07.29 武蔵野線 南流山

スカイブルーの非冷房103系で部分開業から始まった京葉線。全線開業から20年経った今年はE233系5000番台という新たな車両を迎えて、まさに変革期の真っ只中。京葉線の通勤車だけでも実に5車種もの車両が活躍しています。京葉線の歴史を振り返ってみても、これほどバラエティーに富んだ時期はありません。現在の楽しい時期もしっかり記録して、この京葉線ライブラリーの続きに加えられたらと思っています。



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懐かしの撮影記・・・余部鉄橋 編 [あおたけ的 懐かしの撮影記]

あおたけ的、懐かしの撮影記
余部鉄橋

東洋一の高さとうたわれた、山陰本線随一の名所「余部鉄橋(余部橋梁)」。ついに今日(16日)、架け替え工事により100年近い歴史に幕を閉じることになりました。最後にもう一度、列車に乗って余部鉄橋を渡ってみたかったのですが、さすがに山陰は遠く、現地でお別れすることは叶いませんでした。

結局私が最後に余部鉄橋を通過したのは、もう6年も前の2004年7月のこと。余部鉄橋の架け替えという話は以前から持ち上がっていましたが、本格的な話題になり始めたのはこの頃ではなかったかと思います。JR西日本から余部鉄橋の架け替えが明確に発表され、「あまるべロマン」という臨時列車が走り出したこの年、私は休暇を使って餘部へと向かいました。鉄道全線の完乗を目指していた「乗り鉄」時代は何度も通った余部鉄橋、しかし列車を降りて外から眺めたことはありませんでした。そこで、このときは「撮り鉄」モードで余部鉄橋を渡る列車の写真を撮りに行ったのです。

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まずはキハ181系「はまかぜ」を撮影。あえて駅裏の「お立ち台」ではなく、鉄橋の高さが解るアングルを探して餘部の集落を歩き回った覚えがあります。しかしご覧のように生憎の空模様で、テンションが上がりませんでした。

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続いてキハ65エーデル編成の「あまるべロマン」。2両なのでこんなフレーミングにしたのでしょうが、橋脚二本では余部鉄橋の魅力が全く伝わりませんね。このときはこれがベストアングルだと思ったのか、それとも天気のせいでやる気が無かったのか・・・。このあと、本数の少ない列車を雨の中で待つのが辛くなり、もう一本キハ47の普通列車だけ撮って早々と撤収。わざわざ山陰の餘部まで来たのに、撮影したのが三列車のみというお粗末な遠征でした。しかし、その帰りに乗った「あまるべロマン」で思いがけない出来事が。乗車してすぐ、検札にきた車掌さんに「写真撮りに来たの? 今日は天気が悪くてダメでしょう・・・」などと話しかけられました。この日の「あまるべロマン」は乗客が少なく、列車全体でも10人程度。少し業務に余裕があったのか、しばらくこの車掌とは話し込み、ついでに彼から余部鉄橋通過記念の「オレンジカード」まで買ってしまいました。程なく列車は終点の香住に到着。車掌に軽く会釈して下車すると、「よかったらコレあげるよ」って手渡されたのは、なんと「あまるべロマン」の乗務員時刻表!

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この日に乗車した列車のものではなく、同年のGWに運転された際のものですが、発駅や時刻はもちろん、使用車種や速度制限まで載っているホンモノ。思いがけずとても貴重なモノを頂いてしまいました。この時刻表は今でも大切に保管してあります。そして結果的に、この列車が私の余部鉄橋を通過した最後の乗車列車となりました。

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その後、余部鉄橋にはもう一度だけ足を運んでいます。しかも前回からわずか二ヶ月後の同年9月。しかし私にしては珍しくクルマでの訪問だったので、鉄橋を渡ることはありませんでした。というのも、このときは前日に仕事で豊岡を訪れていたのです。仕事で借りたレンタカーをそのまま延長し、翌朝5時に宿泊していた豊岡から餘部を目指します。なぜこんなにも朝早くに出かけたのかと言えば・・・そう、このときはまだブルートレイン「出雲」が健在でした。餘部を7時頃に通過する「出雲」、それに間に合うようにクルマを走らせます。目指すは餘部駅裏の「お立ち台」。ちなみにこの日は一緒に豊岡へ来ていた会社の先輩が同行しています。非鉄にも関わらずついてきたのは、一度「東洋一の鉄橋」を見てみたいということでした。早朝出発という点にはかなり難色を示していましたが、「出雲」を逃すわけにはいかず、先輩といえどもコレだけは譲れません。

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お立ち台から撮影した、朝イチの「はまかぜ2号」。この列車はすぐ先の香住で「出雲」と交換していたので、もう間もなく本命がやってきます。まだ「出雲」の廃止が発表される前だったので、お立ち台もまったりムード。この日は祝日でしたが、同業者は5人程度だったと記憶しています。前回は雨に泣かされた餘部ですが、この日は概ね晴れ。しかし雲が多くて露出が安定しません。「はまかぜ」のように列車に日が当たってくれることを願いながら待っていると、鉄橋先のトンネルから長笛と共に赤いDD51が飛び出してきました。

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祝日で増結されていた「出雲」は、堂々の客車12連! その鉄橋を渡る迫力と轟音に圧倒されてしまい、思わずシャッターを押す指が震えていたのを今でも鮮明に覚えています。光は若干薄日になってしまったものの、かえってコントラストが弱まり、いい雰囲気になったのではないでしょうか。赤い国鉄色DD51が牽引する長編成のブルトレを余部鉄橋で撮る・・・贅沢な願いが叶った瞬間でした。そんなブルトレ「出雲」も二年後の2006年3月には廃止となってしまいました。

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「出雲」通過後は、集落の方に下りて普通列車を撮影。日も高くなり、青空が広がってきました。赤い鉄橋と赤い気動車が青空によく映えます。まさに天空を駆け抜けるという言葉がぴったりのシチュエーション。やはり晴れの日の撮影は気持ちいい! 前回とは打って変わってテンション上がりまくり・・・だったのですが、ここで水を差す一言・・・「そろそろ行かない?」。そう、同行していた非鉄の先輩です。私としては天気に恵まれたこの日は一日中餘部に居てもいいほどでしたが、同行者は飽きてしまったらしい。城崎温泉や出石に行きたいと言い出します。ならば、別行動にすればいいようなものですが、この方は一人旅などツマラナイというタチらしくなかなか厄介。しかし、そもそもこの豊岡出張は先輩主導の仕事で、言わば私はお供のようなもの。先輩無くしては、この日餘部に来ることも無かっただろうし、「出雲」も撮影できなかった・・・というわけで、渋々了解。でも、最後にもう一本だけ撮らせてほしいと懇願して撮影したのが次の一枚。

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クルマを止めてあった駐車場付近から広角でパチリ。これが私の余部鉄橋最後の一枚となり、後ろ髪を引かれるような思いで餘部を去ることになったのでした。このときは必ずもう一度撮影に訪れようと心に決めていたのですが、「出雲」の廃止や架け替え工事が本格化して景観が崩れてしまったことがあり、これ以降再び餘部に来ることはありませんでした。
 (ところでこの写真、異常なほどコントラストが強いのですが、デジカメやパソコンのコントラスト調整をいじっているわけではなく、これはフジの「フォルティア」という超極彩度のポジフィルムで撮ったもの。行きつけのラボで試供品としてもらったものですが、この日の空の青さにつられて試しに使ってみたのでした。あ、言い忘れましたが、今回の写真はすべてポジフィルムで撮影したものです。)

何度か列車で渡った余部鉄橋。私の場合そのほとんどが下り列車で、余部鉄橋を渡ることは山陰地方へ入るための儀式のようなものだとさえ感じていました。新しく架け替えられるコンクリート橋の方もいずれは通ることになると思いますが、果たして今度はどんな気分で渡ることになるのでしょうか・・・。ちなみに旧・余部鉄橋の一部は「空の駅」という観光施設として保存されるとのこと。一部でもこの美しい鉄橋が残されるのは嬉しいことですね。



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